アスペルガーのいぬ

何を考えたか

自己範囲の自認と自衛

人間にはパーソナルスペース(それは物理でも精神でも)が存在しており、他人の侵入を許す範囲が決まっている。自己と他者の境界がどんなに薄く、たとえば暖簾のような人間だとしても、侵入を許さない範囲があるはずだ。

暖簾のようなと揶揄するようなことを言ったが、オープンであることは決して悪いことではない。場面によっては多少、オープンしてみることが功を成したりもする。相手が心を開いているのが判れば、話がしやすくなるものだ。仕事だろうと人間関係だろうと、他人との距離感を縮めたいと思ったときにはオープンに、心を開ける作業が必要である。

ただ、どこまでも心を開ける必要はない。守らなくてはならない範囲を持ち、それがどこなのかハッキリと「自認」しておくべきだ。この自認がない場合、当たり前だが自衛ができない。そして自己の冪等性を保てなくなる。

 


先に書いておくが、自己の侵害をしてくるような人間がいたらそれは100%相手が悪い。パーソナルスペースに入り込んではいけない、という常識を破るような悪人である。

それを踏まえたうえで、自衛の話をする。残念なことに、意識下であろうと無意識下であろうとも他人へ踏み込んでくるような人間は存在する。大体の場合はその時点で嫌な気分にさせられるものだ。苛立ちだとか、嫌悪感だとか、悲しみだとか、負の感情を抱くことになる。

ところが、相手に対して「負の感情」を抱かせないことが得意な人間もいる。何も悪人だけではない。他人との距離感を縮めるのが上手いということだけだ。ただ、そういう人に対してどこまで踏み込ませて良いのかを自認する必要性はある。私はこれを自衛と考えている。

 


話の説得力を上げるためにも具体的な話をしたいのだが、私自身の「許す範囲」を書いてしまうと不利益に繋がりかねないので、何か例を挙げることにしよう。

 


保険の営業なんかはどうだろうか。尚、保険の営業に対しての恨みだとか個人的なバイアスは一切ない。例としてはわかりやすいと感じたので書くことにする。(読んでいる方がもし保険の営業という職務を行なっているのであれば、ただの例え話だと思っていただきたい。そうでないと私自身が他人に対して侵害行為を行なったことになってしまう。)

 


例え話。

あなたは普段から金銭的に余裕がないと仮定する。余裕がなく、生活費等で手一杯。貯金も殆どない。なので金銭に関しては他人を立ち入らせてはならない状態だと考えて欲しい。

そんなときに保険の営業をかけられた。当たり前だが、答えはノーだ。加入しません。できません。だってお金がないから。

しかし、相手はプロである。断られることなんて想定の範囲内、断られる前提ですらいるだろう。保険の営業の世界をあまり知らないが、最初に断られないことのほうが圧倒的に多いのではなかろうか。ここでゴリ押しをすれば良いというものではない。顧客に嫌悪感を与えてしまえば交渉決裂である。クレームにも繋がりかねない。つまりは悪人と見做されてしまう。そこで重要になるのが距離の縮めかたというわけだ。

「営業マンの距離の縮め方なんて、相手の立場に立って望むことを考えるだけでしょう?」とお思いかもしれないが、距離を縮めるのが上手い人間は「相手」ではなく「自分」をベースにしていることが殆どだ。「相手の立場に立って望むことを提供する」なんていうのは表向きのセオリーでしかなく、こういう思考で営業を行なっているようでは多数の契約をとることは不可能だ。(なんなら、営業に向いていない真面目すぎる性格だと思う。)

プロは「どのように自分のペースに乗せ、同じ土俵にさせ、契約させるか」ということだけを考えている。そして、それが悪いことだとは一切思っていない。自信のある商品を「信頼」によって売るというだけなのだ。逆に「信頼を壊すだろう」と思えば、押し売りをすることもない。あくまで決断をするのはあなただ。

仮定に戻るが、あなたはお金がなく、どうしても保険のためにかけるようなお金はない。だからこの場合はどうしても断らなければならない。しかしどうだろう、営業マンと何度か話をしているうちに「悪くないんじゃないか」「自分のためを考えての提案だし」「お金がないからこそ、備えるべきなのではないか」そんな考えが浮かんでくるものである。そもそも売っているものは悪いものではないのだ。そして相手のことをなんだかんだで信頼してきている。となると、相手は背中を押すだけで済む。保険自体も双方にとって悪いものではないしWIN-WIN。契約完了!

 


とならないためにはどうするか、だ。

 


そのためには「自衛」をするしかない。自分はどうしてもお金がないのだから、お金がかかる話だとわかった時点でそれを拒否する以外に選択肢はない。お金に関しては他人を踏み込ませてはならない範囲だと自覚を持っていなくてはならないのだ。

この例え話ではお金としたが、自分の中のあらゆるものや思想に対して同じように自覚、つまり「自認」することではじめて「自衛」ができるようになるのだ。

自認がなければ、いつのまにか他人を受け入れることに賛同していた。という結果になりかねない。

そこには自己の冪同性も何もなくて当たり前である。自己と他者の境界を持たずに、ただ曖昧に他人を許しているような状態では自我がないのと同じだからだ。最初から冪同性も何もない。

 


もちろん、この話もあなたにとって「許す範囲」なのか見定め、咀嚼していただきたい。