アスペルガーのいぬ

何を考えたか

実家牢獄

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個人でコツコツ努力をすれば殆どの場合はプラスにならなくともマイナスのままでいることがないと思う。人間は置かれた環境を自分でどうにかする努力をしないといけない。

ただし,環境が特殊なケースもある。つまり劣悪ということだ。努力をすることが不可能な環境。

 

私は,実家にいると個人の努力が親の意思にそぐわない場合にヒスられるというハンディを背負わされる。親が全てを選んで提供するから何もしなくてよくなるのだが,何もしない人間になるのは嫌だし意思を尊重するという概念がないのはバイオレンスのない虐待と同じである。

例えば,母親が20代の娘が着てる服に文句つけて着替えさせるということがあった。私は前の日に服を用意し時間を決めて行動をしている。まずそのルーティンを乱されてることがストレスだし,さすがにこの歳になれば何を着るのも自由であるべきだ。過度な露出を避けなさいとか,寒いからもう一枚着なさい等ならまだ理解できるのだが,服の柄や色やテイスト,そういうものに文句を言うのはおかしい。一切文句を言われずなんなら「可愛い」とベタ褒めされる,かつわたしも納得する服はカジュアルロリータだった。

父親はどうしているかといえば,ネトウヨ知識を食事中に振りまくか常に母親を詰る。地獄絵図。実家を出られないなら部屋から出ないのが正解になっていった。

 

しかし,それらに対して反論をしないのは私の反省点である。反論しても不毛だからしなかったんだけども彼等はそれを取り違え,良かれと思ってやり続けることになってしまった。そして今になって文字列だけで反抗期を迎えている。拗らせすぎてしまった。

 


そんな実家と私の引っ越し遍歴の話をしようと思う。


私は20歳の時結婚をして家を出ている。序でに言うと23歳の時離婚した。両親に同棲を反対されたために結婚した側面があるのだが,結婚をすることも離婚をすることも決めたのは自分なので結婚に対する失敗はさすがに親のせいとは言えない。しかしどこかでもやっとした気持ちは残ってはいる。


離婚後に住まうところがなくなり,実家に戻った。その時は過労によって退職しており,色々と限界だったのに実家という牢獄に戻るのはムチを打たれにいくようなものだと思ったがそれを招いたのも自身である。

1秒でも早く家を出たかったが,ハローワークからの失業手当と次の職が決まった時に降りる再就職手当をアテにしないと金銭的に不可能だったので暫く牢獄生活が続く。


お金が降りた瞬間は砂漠でオアシスを見つけた人間のような気持ちだった。すぐさま内見に行き一人暮らしする家を即決し,超速で引っ越し準備→引っ越しをした。両親に身元引受人書類を書かせるのはなかなか苦労したが,決めてしまっているしお金は全て自分で出しているので「書いておいて」の一点張りでなんとか乗り越える。

これが連帯保証人の書類だったら書いてもらえなかったと思う。両親はお金を散財するのが趣味なので,デカイ家とデカイ土地とデカイ骨董品が家に並んでいても常にお金がないのだ。なので,お金が絡む話をすると眉間に皺を寄せる。なんならお金を貸してくれと言われたこともあって,そのお金は未だに返ってきていない。書面にするべきだった。


引っ越した後暫くはおおよそ平穏な生活だったのだが,今まで自炊ということをしたことがなかった。実家にいた時には母親が作り,結婚していた時も旦那が作っていたし,お金もあったので外食が多かった。

自炊ができないというのは案外致命的だった。というのはお金がなかったからだ。お金があるなら外食なりコンビニ飯なりで済ませられていたのだろうけど,その時は前の会社に比べ手取りが少なく,離婚の際に生じた慰謝料の返済があり,使えるお金は限られていた。

しかし私は酒を飲みたいライブを見たいあれが欲しいこれが欲しいとワガママに散財をしてしまう。これは物が残らない点を除いて両親との共通点なので心底嫌な癖である。

自炊をしないと回らないとわかっていたのだが,時間に余裕がなかったし,やろうという気力も湧かず,そもそも食事に対する興味が薄かったということが決定打となり食事を放棄した。完全なる放棄が不可能なことはわかっていたのでコストパフォーマンスのいいダイエットドリンクを二倍希釈して毎日やり過ごしていた。


もちろん動けなくなった。

その時住んでいた家にはロフトがあり私はそこで寝ていたのだが,水を飲んだり薬を飲んだりする為には降りなければならない。しかし栄養が足りてないせいで体力が落ち,排泄以外のときに降りるのが億劫になってしまった。

今思えば,排泄ついでに薬を飲めばよかったし,ペットボトルに水を入れてロフトに置いておけばよかったし,色々と解決法はあったような気がする。ただその時は頭も回ってなかったようで,とにかく何もできなかった。

薬を飲まないせいで精神状態は悪化し仕事に行なくなり,風呂にも入らず寝たきり。ついには何も口にしなくなった。ある日、ロフトの上で寝転がっていたとき「マジで死ぬ」と魂の叫びを察してつい母親に電話をかけた。


両親が車で迎えに来て,実家へ直送される。この後久々に米を食べた。美味しいとかそういう感情ではなく「これが、ご飯だ……」という原始人のような感情を抱く。

私は体力が戻ったらすぐに家に帰るつもりだったのだが,両親には反対される。「ほらみなさい。自分で生活など無理じゃないか」「自立できない人間が社会に必要とされるわけがない」等の説教を受け,その後父親が管理会社へ解約の電話をかけていた。

終わった。オアシスよさらば。1週間後くらいに引っ越し業者によって荷物も実家へ直送された。


ハロー。牢獄。そして休職中。

職がないと割と人権はない。精神的な問題による休職ではあったが,薬を飲まず食事もロクにしなかった私が悪いので,反省している。しかし言わせてほしい,反省とは自分自身がすることであり,他人に強要されるのはあまり意味がない。というか反省を強要されるのは気持ち的に厳しい。

でも父親は毎日のように謎のネトウヨ知識とともに私が資本主義社会の中でいかにゴミなのかを教えてくれた。反論する気力がないので黙っていると「何か言え」と言われる。何も出てこない,頭が回っていない。そうなるとまた父親は詰るのでつい泣いてしまったのだが「泣いても何もならない,精神病でもアスリートになれる,社会の為に生きろ,泣いてる場合じゃない」となかなかの体育教師感溢れる台詞を吐き,舌打ちをした後に「ハートチップル」という父親が好きな菓子を戸棚から出し,レンタルしてきた海外ドラマを見始めた。胡座をかいて「ハートチップル」を貪りながら同じことを繰り返しているような海外ドラマを見ることは仕事をしている人間の特権なのだろう。


ある日,好機が訪れる。

仕事のため大阪に住んでいた妹が東京に帰ってくるという。しかし,次の勤務地は実家からアクセスが良いとは言えず住宅手当も出るということで一人暮らしを検討していると聞いた。後々考えてみると,住宅手当が出ても光熱費や食費は一人暮らしをすれば避けられないので,実家にいた方が金銭的に楽にはなるはずなので,妹も恐らくは実家牢獄説をわかっていたのだと思う。

とにかく,その話に乗った。二人暮らしの提案である。二人暮らしの話を妹が両親にすると案外スムーズに許可された。住む予定とした場所の治安が良かったのもあるし,二人なら安心なのかもしれないが,これを私が話したらスムーズにいかなかったんじゃないかと思っている。長子というのは親から良い寵愛も悪い寵愛も一番に受けるものである。

二人暮らしはなかなか快適だった。復職もした。途中で3人になったりとまあ色々あったがそこは割愛する。あの家は総合的に快適だった。リノベーション物件で家は割と綺麗で広かったし,風呂も快適だった。家賃も相場よりは安く駅からは3分ほどの距離にあった。妹に頼まれて米を炊いたりするうちに少しは自炊も覚えた。

 

1年経った頃に妹が婚約をした。心の底から祝う気持ちはもちろんあったし,おめでとうと言葉にもしたのだが,すぐに「家はどうなるか」ということで頭がいっぱいになった。婚約した相手がまだ転勤中だったため猶予期間は設けられることになるが,この家を去るのは確かだった。

私は安月給のままだったし慰謝料の返済も続けていたし,そもそも妹と暮らすための引っ越しにも資金を使ったので貯金がなかった。ヤバイぞ,牢獄生活が始まる。不可避だ。毎日少しずつ実家に帰るための片付けをしていたが,毎日泣きそうになった。金があれば,金があれば。でも金がなくなったのは自分のせいだ。


この時既に8回目の引っ越しとなっていた。内訳は,

実家→元旦那と住んだ家1→元旦那と住んだ家2→実家→一人暮らしをした家→実家→妹と暮らした家→実家

である。余談だが引っ越しをこれだけすると物がめちゃくちゃ減る。割と少ない荷物は実家に着いても段ボールから殆ど出さなかった。何故ならまた絶対に金を用意して出ると決めていたからである。必要なものがあれば段ボールを開け,そこから取り出してまたしまっていた。


実家に戻った後,私は転職をした。(厳密に言うと実家に戻る前に内定をもらっており,勤務を始めたのが実家に戻ってからということになる。)幸いな事にその職場の給与は良かったため,貯金が可能だった。結局実家には半年程いたのだが,仕事が割と忙しかったこと,その時の彼氏の家によく泊まっていたこと,土日はとにかく家から離れて近所のドトールに行くもor何が何でも部屋から一歩も出ないようにしたことのお陰で前ほどは嫌な思いをせずに済んだ。とはいえマイルドな地獄だった。


お金が貯まったころ,丁度よい物件を見つけた。交流のないシェアハウスのようなところ。家具家電付き。保証会社のみで保証人はなくてもいいとこのことだ。サッサと段ボールの蓋を閉めて家を出た。


最後に家を出る時流石に限界で「反抗声明」が書かれたA4用紙2枚(父と母用)を渡した。今まで反抗しなかった分をA4一枚にまとめたのだから許してほしい。

しかしこの用紙の内容はまるで意味がなかったようで,ちょっと前に実家に泊まったときにはやはりマイルドな地獄があった。そしてやたらと「病院行ってる?」「病態はどう?」と聞かれた。反抗されて扱えなくなったからって精神病のせいにするなよと思ったが,冷蔵庫にあるゼリーを食べながら「大丈夫」とだけ返事をする。

 

ゼリーを食べ終えた私は,また増えた骨董品を尻目に家に帰った。

 

 

#尚この後二回引っ越したので引っ越し歴は現在10回となりました。そういう運勢とかあるんですかね。