アスペルガーのいぬ

何を考えたか

死んじゃダメだ

 


「自殺をしてはならない」

 


義務教育の段階で教わることである。私は道徳の授業で「いのちは一度なくなったら二度と元には戻らない。」と学んだ。自殺をしてはならないと学んだわけではないのだが,この教育には「二度と戻らない。から,いのちを大切にしましょうね。」という意味が込められており,学校の先生にもそのようにして解説されたので,たとえ自分のものであっても例外ではないと思っていたし,大多数の人間は同じように考えているだろう。

 しかし,自ら死のうとしている人間に同じ言葉をかけるのは酷な話である。さまざまなストレスを受けて悩んだ結果に死ぬという選択肢を取っているのであれば,当人からすると「死ぬ」という一つの答えだからだ。答えというのは,必ずしも正解が出せるものではない。正解が一つではない例もある。間違っていたとしても答えを出したということだけで当人にとっては大きなプロセスである。それを真っ向から否定するのは避けるべきだ。

 


 この考えも義務教育の中には入っている。先生の出した質問に対して生徒が出した答えが間違っていたとき,それを真っ向から否定するだろうか。少なくとも私の時代にそういうことはなかったと記憶している。どうしてそう考えたのか聞くというのが一般的な対応である。

 


 ではなぜ「死ぬ」という答えに対してだけは「自殺をしてはならない」「死んではいけない」と対応するのだろうか。

 よくある「死んではいけない,なぜならば神様(仏様)の教えに背くからだ」という理由付けは宗教の思想に基づいて判断した別の結論でしかない。何を信じようと自由ではあるのだけど,その自由は他人に押し付けるものではない。しかも日本人の多くは無宗教で,熱心な宗教信者というのは少数派である。神様仏様の代弁として「死んではいけない」という人間は【必ずしもではないが】お盆も十五夜もハロウィンもクリスマスも結婚式も葬式も,形式として捉えているだろう。個人的な意見としては都合が良いなという印象を受ける。こっちは少ない脳みそで一生懸命考えた結果だぞと言ってやりたくなる。

 


 話が逸れてしまったが…… なぜかという問いに対しての結論をここではっきり出すことはできない。ただ,想像するに神様仏様を都合よく扱うのは人間の本能的な恐怖(のようなもの)から逃れるためだろう。だれだって暗闇は怖いように,死と対峙したことがなければ,恐ろしいものだ。そもそも少しでも死を感じるものを見るのすら怖いとすら思うだろう。宗教というのは,そういった恐怖を神様仏様に頼ることで軽減する考えがある。

 不思議なことにその考えはかなり浸透しており,普段は無宗教であってもイレギュラーな状況に立たされた人間は神様仏様に祈るのだ。お腹が痛くてトイレから出られないとき神に祈るのがいい例である。イエスなのかアッラーなのかそんなことはどうでも良いのだろう,誰しも恐怖や苦しみからは避けたい。誰かに死なれることは充分に怖い事だし,そういった場面では神様仏様の代弁者であるほうが楽なのだ。

 


聖書では時折,恐怖に対しての神(正しくは神の子とその弟子)の振る舞いが登場する。その力は絶大で,嵐を止めたりする。そしてそれに従うとあなたは最強ですよみたいな話も出てくる。真の宗教信者には自殺を選ぶ人間が少ないという統計があるが,それは「死んではならない」という決まりからではなく,最終的には神様仏様に頼れるからなのだと思う。

 


 というわけで,あなたがもし「死んではならない」と頭ごなしに言われたなら,あなたはそれについてなぜなのかという質問をしていいし,質問をする権利がある。もし,否定する理由が神様仏様の代弁や道徳/倫理等の理由でなかったとしたらその答えによく耳を傾けてみるといい。

あなたが出した答えに対して反論されるということは,議論の場に登るくらいには意味のあるものだということなのだ。